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【マナイタ散歩】上尾久村の馬捨場跡

前回に引き続き「江川堀跡」の探索中、ちょっと川跡から外れてみるとこんな貴重な場所が保存されていた。荒川区エライ!

ここが「上尾久村の馬捨場跡」である。
尾久八幡神社所有の「上尾久村絵図」にも「死馬捨場」として記されている。
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※すぐ裏は隅田川。スーパー堤防の工事のため本来の位置より東へ約50メートル移動されている。


・・・かつて、荒川沿いのこのあたりは、秣場(まぐさば)と呼ばれていた。秣場とは、田畑への施肥である刈敷きや、牛馬の飼料とする草の共有の採取地のことをいう。江戸後期には、新田開発されてゆくが、その呼称は地名として大正時代まで使われていた。
この秣場のなかに、馬捨場があった。牛馬は、田畑を耕すため、荷物の運搬に欠かせない動物であり、特に馬は、軍事用、宿駅の維持のために重視された。しかし、年老いたり、死んだ際にはここに持ち込まれ、解体されて、武具・太鼓などの皮革製品や、肥料・薬品などの製品として活用されることになっていた。こういった馬捨場は他の各村々にも存在し、生類憐れみ令では、解体後の丁寧な埋納が求められた。・・・

敷地内の荒川区教育委員会設置による案内板より抜粋

おもに江戸時代、牛馬は重要な労働力であり、所有者といえども勝手に殺したりすることは出来なかった。
その牛馬が自然死すると、すみやかに各村にひとつ(あるいは2村にひとつ)の「死馬捨場」に安置された。すると定期的にここを巡回するいわゆる「非人」といわれる人々が回収し、回収された牛馬は「長吏」により加工され皮革製品へと変えられたのだ。


竹駒稲荷
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馬頭観音堂
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寛永十五年(西暦1638年)の荒川区内最古の庚申塔をはじめ、馬頭観音、供養塔、童子墓など開発により移動を余儀なくされた石塔たちが集められている。
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この場所のすぐ南にはかつて「旭電化(現在のADEKA)」があり、現地の下水工事の際に「馬捨場」を取り払いたい意向であったようだが、規模を縮小し何とか保存された。当時の様子を知る上で大変貴重な遺跡である。
現在このように正式に遺跡という形で残されている「死馬捨場」は都内にここと、体裁は違うが葛飾区の新宿(にいじゅく)の北方にある馬頭観音堂の2箇所だけと記憶している。

※もしほかにご存知の方がいたら是非おしえてください。m(_ _)m

※ ※ ※ ※

荒川区は、この「死馬捨場」をはじめ「小塚原刑場跡」「火葬場集積地跡」など、負の遺産ともいえる施設の遺跡を積極的に公開している。その姿勢にはほんとうに頭がさがる。天下の南方刑場「鈴ヶ森刑場跡」をようする品川区にも見習ってほしいものだ。



参考文献:

『荒川区史跡散歩:高田隆成・荒川史談会[著]』


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プロフィール

Author:東京マナイタ学会
刑罰史跡の研究 - 刑場跡、墓場、火葬場、死馬捨場、悪所、その他ひとの嫌がる場所と地形の関連。沖積低地、微地形、川跡、境界、新旧地形図、鎌倉、中世の歴史、明治~昭和の事件。

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