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源頼朝と山谷堀の謎

●謎の水路

台東区の地図を見てみよう。
三ノ輪から今戸までほぼ一直線にのびる道。これが「山谷堀」跡だ。

江戸時代は遊里・新吉原へのアプローチとして有名な水路。その説明ならご存知な方も多いかもしれない。

一般に「山谷堀」というと、三ノ輪の浄閑寺あたりから、今戸の水門までと思われがちなのだが、厳密には違う。

山谷掘公園
山谷堀公園。現在は暗渠となって地下を流れる


「今戸掘ともいう。音無川(石神井用水)の下流部にあたる。現在の日本堤消防署(千束四丁目1番)から東南に流れ、待乳山聖天(浅草七丁目4番)の北を経て今戸橋先(浅草七丁目4番の地先)で隅田川に合流した」
『川の地図辞典・東京/23区編:菅原健二[著]』より


つまり都下水道局ポンプ場(千束堀川が接続するあたり)から、隅田川に注ぐまで、約700mの流域までが純粋に「山谷堀」と呼べる範囲で、それより上流は「音無川」ということになる。

江戸時代、「堀といえば山谷堀」といわれたぐらい名の通ったこの水路。一体いつ頃掘られたものなのだろうか?


「山谷掘がいつ頃掘られたかははっきりしない。江戸の遊里吉原の関係からみても、おそらく江戸初期に出来たものだろう」
『新版 下谷・浅草 史跡をたずねて:東京都台東区発行』より


「いつ頃掘られたものか分からない」・・・意外にもこれが答え。まさに謎の水路なのだ。

元和六年(西暦1620年)、徳川幕府は荒川(隅田川)の氾濫による洪水から浅草方面を守るため、諸大名に命じ、もとあった山谷堀に沿って堤防を築かせた、とある。これが日本堤。
その37年後の明暦三年(西暦1657年)、遊郭が日本橋人形町の元吉原から移転してくる。

新吉原、山谷堀、日本堤はセットでドンっと造られたイメージがあるかもしれない。しかし実は、山谷堀(不明)→日本堤(西暦1620年)→新吉原(西暦1657年)という順番となる。

#新吉原が南北軸から傾いているのは「客が北枕にならないように」なんて説がある。
#面白いけどそれは違う。ただ元あった山谷堀と平行に造成されたから、である。

さて、今戸から三ノ輪まで、2km弱を一直線で貫くこの水路。地図で見ても大規模な人工建造物だと分かるのに「いつ掘られたかははっきりしない」とは不思議な話だ。
一般には「江戸初期の成立か?」とも言われているが確証はない。「少なくとも江戸初期には存在した」と言えるにとどまる。

うーむ。「山谷掘」は、いつ掘られたのだろう?なぜ記録がないのだろう?山谷堀っていったい何なのだろう???

ワシは江戸幕府成立のずっと以前、中世には広義な意味での山谷堀の原型は形成されていたのではないか、と考えている・・・。


●源頼朝と渡河伝説

徳川家康入府以前の東京の地形は、今とは大きく違っていた。

鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』によれば治承四年(西暦1180年)旧暦八月十七日、源頼朝は伊豆で挙兵、石橋山の戦いで敗れ安房(千葉県鋸南町)へ敗走する。

頼朝はこの安房で再挙兵し北進。千葉氏などの関東武士団を味方につけ千葉の市川へといたる。
しかしここで秩父流平氏の江戸太郎重長に半月以上も足止めをくう。

これに業を煮やした頼朝は、旧暦十月二日ついに江戸川、隅田川の渡河を強行し「隅田の宿」に至る。これが有名な「頼朝の敵前渡河」だ。

これには江戸太郎重長も驚き、居城である「石浜城」から頼朝の滞在する「隅田の宿」へ河越重頼、畠山重忠とともに参上する。「隅田の宿」は武蔵野台地へ渡る「長井の渡」の渡し場でもある。

同四日、数万の頼朝軍は江戸太郎重長のしつらえた船をならべ浮橋とし「長井の渡」を渡り、滝野川、板橋、府中から相模の国をへて同七日に鎌倉に入るのだ。

ここで注目したいのは「長井の渡(ながいのわたし)」である。江戸川(と中川)、隅田川を渡り「隅田の宿」へと至った頼朝軍はふたたび船で「長井の渡」とやらを渡る。

渡し船?頼朝軍は、現在の浅草あたりから「船」で武蔵野台地へと至るのだ。

中世の頃、上野の台地と浅草の微高地の間には満々と水をたたえた湖があった。これを「千束池」と言い、すぐ南にあった「姫が池」とともに「長江(井)の入江」と呼ばれていた。
千束池の北側は湿地帯であったとされ、いずれにしても水浸しの土地である。つまり浅草寺周辺を除く台東区の低地のほとんどが水の中であったのだ。


●石浜城、隅田の宿、そして「長井の渡」

さて、実は「頼朝の渡河伝説」に出てきた「石浜城」「隅田の宿」「長井の渡」ともその正確な位置は分かっていない。

『五百年前の東京:菊池山哉[著]/塩見鮮一郎[解説]』では「その石浜城は真土山附近の岡阜が其の真蹟であったらしい」としている。

『江戸の川・東京の川:鈴木理生[著]』によると、「吾妻鏡」「義経記」「源平盛衰記」のそれぞれ「隅田宿」「隅田河原」「石浜」を同じ場所としたうえで、「下総国側からみれば浅草観音を中心とする微高地は「隅田宿(=石浜)」にほかならないのである」としている。

また『隅田川の伝説と歴史:すみだ郷土文化資料館[編]』では「隅田宿は現在の東京都墨田区堤通の隅田川神社、木母寺付近である」としている。

一般的に「石浜城」の位置は現在の石浜神社付近が有力であるが、今戸の待乳山なども比定地として上げられている。「隅田の宿」は石浜神社付近、隅田川神社付近、浅草寺付近などが有力地である。『義経記』によれば隅田川両岸に「隅田の宿」があったことになっている。

さらに「長井の渡」の位置にいたっては、全くわかっていない。各資料とも石浜の対岸までは古東海道として力強く線を引くものの、石浜から先は「長井の渡?」などと三河島あたりまで弱々しく点線を引くにとどまっている。

「隅田の宿」が浅草側の渡し場らしいのだが、そもそも「隅田の宿」の場所が不明なのだ。

※ ※ ※ ※

さて、もう一度繰り返す。「山谷堀とは何なのか?」

ワシは大胆にも

「山谷堀は中世の渡し舟の航路、長井の渡しの名残りである」

と仮説をたててみた。


●「山谷堀」こそ、頼朝の渡った「長井の渡」の航路である。

ワシは「長井の渡」の浅草側の渡し場である「隅田の宿」を「山谷堀」の出発点、待乳山付近と比定する。

待乳山の南に「浅草山ノ宿町」という町名があった。この町名こそ「隅田の宿」の名残なのではないかと推測する。


浅草山ノ宿町:
御府内備考は山之宿町の項で「町名の起、町地に相成候年代不相知」と記している。本町の起立年代、名称由来は不明といわざるを得ない。しかし若干の考察はできる。まず起立年代。寛文図に「山宿丁」という記入がある。これに基くと江戸時代前期にはすでに町屋が開かれていたように推察される。町名の由来については、新撰東京名所図会が

其の名の由(よ)るところ詳(つまびやか)ならず。或は遠国より金竜山に参詣するものゝ宿せしところなるにや。古代の宿駅には遠からざる所に隅田の駅があり故に爾(しか)く思はるゝなり。

と考証している。
『下谷・浅草町名由来考:東京都台東区[編集]』
(読み仮名は当サイトが追加)


かつてこの周辺には7つの山が存在したとされている(そのうち待乳山のみが現存)。「山の宿」の「山」とはこれらの山を指すことは想像に難くない。
そしてその周辺に「隅田の駅」という宿駅が存在したという。ワシはこれこそが頼朝が滞在した「隅田の宿」だと比定する。

また、今之津八幡神社(現今戸神社)は、頼朝の祖先の源頼義・義家父子が康平六年(西暦1063年)に建立したと伝えられているのも興味深い。今之津とは「新しい港」の意味である。対して古い港とは「石浜」だと言われている。
江戸氏の知行地である「西国の船が数千艘発着する港」は一般に「石浜」であるとされているが、ワシはこの港こそ「今戸」であった、と考えている。

そしてほぼ対岸にあった牛嶋神社(現在は南に移転。旧地は長命寺の桜餅のあたり)の由緒には、頼朝軍が隅田川を渡河する際に、同行の千葉介常胤が渡河の成功を牛嶋神社に祈願した、とある。頼朝軍がここを通過したと仮定してもさほど乱暴ではないだろう。
牛嶋神社旧地には古墳もあったという話も伝わる。よって当地が古くから微高地として認知された土地だとうかがえる。

頼朝軍は牛嶋神社旧地より今戸へと「敵前渡河」したのである。

牛嶋神社旧地
弘福禅寺裏手にあたる牛嶋神社旧地。土手上に神社の常夜灯も残る。長命寺の桜餅のすぐとなり


ちょっとクドくなるが、当時の様子を再現してみたい。

治承四年(西暦1180年)旧暦十月二日、頼朝軍は、態度をはっきりとさせない江戸太郎重長によって半月も市川に足止めされていた。
しびれを切らした頼朝は、牛嶋神社旧地付近に隅田川の渡河点を見出し、有名な「敵前渡河」を強行。無事に対岸の今戸へと渡り「隅田の宿(待乳山・旧山之宿町周辺)」へ陣を張る。

これに驚いた江戸太郎重長は居城である石浜城(現石浜神社付近)より「長井の渡」の渡し場である今戸へと参上し、頼朝軍に合流する。
同四日、頼朝軍は「長井の渡」に江戸太郎重長のしつらえた船をならべ浮橋とし三ノ輪へ。さらに、滝野川、板橋、相模の国へと兵をすすめ、七日には鎌倉に入った。


●そして「長井の渡」は「山谷堀」と呼ばれるようになった

かつてこの台東区北部には「千束池」という大きな池が存在したことは、後の研究者によっても確認されてる。

「長井の渡」は、この千束池への音無川の流れ込みにより形成された「澪(みお)」を利用した船の航路だったのではないだろうか?

澪(みお)とは浅い湖や遠浅の海岸の水底に、水の流れによってできる溝である。河川の流れ込む所にできやすく、小型船が航行できる水路となる。

この「澪説」は、あるとき博識の知人に「山谷掘=航路説」を話したときにいただいたもので、彼は「それは元々は澪だったかもしれない。水の都・ベニスの水路も元は澪だ」という話してくれた。「澪からの水路の出来方」は自然であり、諸国にも例があるのだ。

そして千束池が時代とともに干上がり陸地化してゆくなかで、今戸から三ノ輪をつなぐ渡し船だけは交通、流通の便のよさからその航路が曳船堀というかたちで残されたのではないか。おそらく水路に沿ってトウパス(曳船道)も完備されていただろう。

さらに時代が下がり周辺の陸地化が進むと街道が整備され、しだいに曳船は使われなくなってゆく。あとには今戸から三ノ輪へ一直線にのびる水路だけが残された。

いつからか「山谷堀」と名付けられたこの水路、江戸時代になりトウパス(曳船道)上に堤が築かれる。堤の南側の田んぼの中には遊郭が作られた。日本堤と新吉原である。

そしてこの「山谷堀」がかつて何であったのか、いつ掘られたか、を知る者もついにいなくなってしまった。

そう、「山谷堀」は中世の渡し船の名残であり、源頼朝が渡った「長井の渡」の航路跡なのだ。


山谷堀・断彩陰影図
台東区小島にあった三味線堀が姫ヶ池の名残であるという説があるが、ならば山谷堀もかつての「千束池の最後の姿」ともいえるのではないか


ではなぜ山谷堀の建設について何の記録もなく、いつ誰が作ったのかさえ忘れ去れたのだろうか?

その理由としてワシは「掘られた水路ではなく、徐々に千束池が干上がってゆく過程で、逆に航路だけが残されたから」なのではないか?と考えている。

また「公共事業ではなかったから」という理由もかんがえられる。
あくまで民間レベルでの工事であったという事と、当時は航路が自然な形で残り、人々にとっても昔から当たり前に利用する「水路」だったのだとしたら、公的な記録に残す理由もなかったのではないだろうか?

あるいは『浅草・江戸明治編:堀切直人[著]』で、数々の証拠とともに述べられているように、江戸の起源すべてを徳川幕府からとしたかった「徳川幕府による隠蔽」なのかもしれない。


以上が「山谷堀」は音無川の澪であり、中世の航路跡であり、源頼朝が渡った「長井の渡」であった、というワシの仮説である。

想像してみてもらいたい・・・。

現代。この暗渠化された何の変哲もない「山谷堀公園」が、中世の頃には満々と水をたたえた千束池の中の澪を利用した「長井の渡」の航路であり、船を並べた浮橋を馬にのった源頼朝が堂々と数万の軍勢を率いて、鎌倉を目指し、三ノ輪-王子-板橋と進んでいったのだ、と考えるとなんてロマンチックなんだろう!!
(このあと頼朝は鎌倉幕府を築くのだと考えたら、感慨深いではないか)

みなさんもこんな想像をしながら「山谷堀」を歩いてみてはいかがだろう。

--
隅田川を渡河するカッコイイ頼朝の姿は以下のサイトのページ中央の
「治承四年 源頼朝 隅田川旗上着到勢揃之図」を参照されたい。

「浮世絵で見る! 結城七郎朝光」
http://www2u.biglobe.ne.jp/~ya-ma-da/tomomitu/sumida-01.htm




参考文献:

『川の地図辞典・東京/23区編:菅原健二[著]』
『新版 下谷・浅草 史跡をたずねて:東京都台東区発行』
『五百年前の東京:菊池山哉[著]/塩見鮮一郎[解説]』
『江戸の川・東京の川:鈴木理生[著]』
『隅田川の伝説と歴史:すみだ郷土文化資料館[編]』
『下谷・浅草町名由来考:東京都台東区[編集]』
『浅草・江戸明治編:堀切直人[著]』
『隅田川文化の誕生-梅若伝説と幻の町・隅田宿-:すみだ郷土文化資料館[編集・発行]』
『東京の1万年を歩く:東京古里会[編・著]』
『東京低地の中世を考える:木村礎[監修]/葛飾区郷土と天文の博物館[編]』


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プロフィール

Author:東京マナイタ学会
刑罰史跡の研究 - 刑場跡、墓場、火葬場、死馬捨場、悪所、その他ひとの嫌がる場所と地形の関連。沖積低地、微地形、川跡、境界、新旧地形図、鎌倉、中世の歴史、明治~昭和の事件。

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